「“かざして”大容量データ伝送」を実現するTransferJet技術に増田和夫が迫る
米ラスベガスで2008年1月に開催された「International CES 2008」で注目を集めていた技術の一つに、ソニーが開発した「TransferJet」があった。超近距離専用無線システムのTransferJetは一般の無線LANと異なり、わずか3cm程度しか電波が飛ばないのが大きな特徴だ。このため「かざしたり」「タッチする」ことでデータを交換する、というユニークな利用スタイルを提案している。電波は4.48GHz帯を使用し、通信速度は最大560Mbps、実効速度で375Mbpsの高速通信を実現できる。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/column/20080912/1018678/?top
2008年7月17日には家電、デジカメメーカーなどを中心にTransferJetコンソーシアムが設立され、AV機器やデジカメ、携帯電話、PCなどへの普及を図る計画だ。3cmしか電波が飛ばない異色の無線がどのような世界を開こうとしているのか。TransferJet開発陣に聞いてみよう。
無線LANは家電には敷居が高すぎる
増田: TransferJetは超近距離専用という、とてもユニークな発想で作られたワイヤレスシステムだと思いますが、どのようなモチーフでTransferJetの開発を始めたのでしょうか。
ソニー オープンイノベーション部門 TransferJet事業化推進部 統括部長 小高健太郎氏 (画像クリックで拡大)
小高氏: 当初は、次世代のUWB(Ultra Wide Band:超広帯域で超高速な無線通信規格)を研究していました。しかしUWBは設定が難しく、家電の分野では使いきれそうにないというのが率直な感想でした。
誰もが簡単に使える無線といえば、テレビのリモコンや車のキーレスエントリーのように、「相手が決まっていて接続設定が不要」というのが条件になると思います。これに対してUWBは相手が不特定なので、誰と通信するかを指示する必要がありますし、傍受されないようにセキュリティーを確保する必要も出てきます。こうした設定の煩雑さが大きな敷居になっていると感じました。
また、UWBが超高速と言っても、電波で1つの空間を共有するので、複数のユーザーが同時に使うと転送速度が確保できなくなりますし、識別のための複雑なプロトコルなども不可欠になってきます。
TransferJet技術を利用すれば、デジタルカメラやデジタルビデオカメラを“かざす”だけでデータを高速伝送し、画像の閲覧や映像のストリーミング再生などが可能になる (画像クリックで拡大)
増田: 家電的でフレンドリーなワイヤレス接続の規格を作ろうということですね。それでは、使い勝手として「USBクレードル」とどこが違うのでしょうか。
小高氏: あらかじめ接続環境を用意できる家庭内では、USBクレードルと同じ使い勝手と言えます。しかし、そうしたお膳立てのないパブリックな場所でLANやUSBを使おうとすると、意外に手間がかかります。
例えば会社で会議の後にデータ交換したい時に、PC内蔵の無線LANではアクセスポイントを指定するなどの手間が面倒ですし、USB接続もPC間ではホストとクライアントの設定が難しい。結局はUSBメモリーなどでデータを交換しているのが実情だと思います。無線LANやUSBがあるのに実際は使っていない。もっと簡単にタッチするだけで情報をやりとりできるような無線リンクが欲しい。そういうモチーフでTransferJetを開発しました。
TransferJetは「空間を“電波で”汚さない」無線システム
増田: 電波というのは帯域に限りのある公共財なので、既存の電波帯に割り込もうとすると、技術のみならず、さまざまな難しい面があると思います。一般の無線通信ですと、いかに電波をうまく飛ばすかに注力しがちですが、電波を飛ばさないことで、そうした摩擦を回避してシンプルに使おう、という逆転の発想ですね。
ソニー オープンイノベーション部門 TransferJet事業化推進部 事業推進担当部長 岩崎潤氏 (画像クリックで拡大)
岩崎氏: 使い勝手の追求から逆転の発想が生まれました。TransferJetと比較されるのがWireless USB(無線USB)ですが、Wireless USBでは、通信衛星の電波などとの干渉を避けるために、野外での使用に制限がかかる場合があります。お互いに配慮しながら電波を使わざるを得ないのが実情です。
こうした“窮屈さ”なしに手軽に使える無線リンクがTransferJetです。TransferJetは相手にタッチすることで通信を行う超近距離専用の高速無線通信規格です。たった3cmの範囲しか電波が届きませんので、ほかの無線通信との混信や干渉の心配がなく、「空間を汚さない」システムと言えます。
また、ピア・ツー・ピア(上下関係のない接続)で双方向の通信が可能です。このためIDやパスワード、アクセスポイントの指定などの設定が不要で、システムをシンプルに作れます。Wireless USBの規格上の速度は通信範囲3mで最高480Mbpsですが、空間を共有しますので、複数のユーザーで使うと実行速度は半分程度に低下してしまいます。また距離によっても通信速度が低下します。これに対してTransferJetは空間を共有しませんし、超近距離専用なので実使用で約375Mbpsの速度が確保できます。また、USBのようにホストとクライアントといった指定も不要です。
ユーザーの使い勝手優先で参加企業を募集
増田: 7月17日にTransferJetのコンソーシアムが設立されましたが、設立に至る経緯と現状についてお聞かせください。
TransferJetコンソーシアムのWebサイト。ソニーのほかキヤノン、イーストマン・コダック、日立製作所、日本ビクター、KDDI、ケンウッド、松下電器産業、ニコン、オリンパスイメージング、パイオニア、サムスン電子、セイコーエプソン、ソニー・エリクソン・モバイルコミュニケーションズ、東芝の15社が参加している (画像クリックで拡大)
岩崎氏: TransferJetのプロトタイプを社内の各事業部にプレゼンしたところ、「これは面白い」という意見と同時に、「通信ものはソニー製品間だけのインターフェースにするよりも、汎用のオープンポリシーでやったほうが良い」という意見が多く聞かれました。当社のトップマネジメントもオープンポリシーに賛同したため、今年1月に開催されたInternational CES 2008(米国で行われる家電の展示会)でお披露目して、7月のTransferJetコンソーシアム設立までこぎ着けました。コンソーシアムへの参加を募ってみると、社外でも興味を持っていただける企業が多く、ほぼすべてのデジタルカメラメーカーに参加していただけるなど、予想以上の参加企業を得ることができました。
増田: TransferJet普及のためには、より多くの企業の参加が不可欠に思えますが、ライセンス料はどの程度になるのでしょうか?
小高氏: 無線の物理層(回路と基本方式)とLSIの製造については当社が担当していますが、上位のアプリケーションについては参加企業の特許技術を持ち寄って形にしたいと考えております。このため、具体的なライセンス料は未定ですが、よりオープンにすることが先決だと思います。ライセンス料で稼ぐというよりも、TransferJetチップセットの提供と、それを採用して商品価値を高めることでビジネスをしたいと考えております。
TransferJetの通信機能を内蔵したシンプルなクレードルのサンプル。非接触であるという点以外は、一般のUSBクレードルと何ら変わりはないという (画像クリックで拡大)
増田: 今後、どのような企業の参加を募る予定ですか? 海外ではアップルやマイクロソフトなどが参加しないと普及は難しいのではないでしょうか。
小高氏: 無線規格が大前提ではなく、まずはユーザーの使い勝手ありきで、フレンドリーなタッチ無線を作りたいというのがTransferJetのコンセプトです。このため製品の中でどのように使うか、最初にユーザーインターフェースやサービスなどを定めたいと考えております。
そこでコンソーシアムの第一次募集では、最終製品を企画製造するメーカー各社にお声がけしました。具体的にはデジタルカメラなどの映像機器、PCや携帯電話などへの応用を考えていて、デジタルカメラはほぼすべてのメーカーに参加いただきましたし、携帯電話ではKDDIのほか、端末メーカーにも多く参加いただいております。CESで発表したところ海外企業からの照会も多く、将来はアップルやマイクロソフトなどの協力も得られればと考えております。
シンプルなハードウエアで確実にリンク
増田: TransferJetのチップセットとは、具体的にどのようなLSIなのでしょうか。
デモ機のデジタルカメラ「Cyber-shot(サイバーショット)」を持つ岩崎氏。超近接通信のため、シンプルなLSIを作ることが可能だという (画像クリックで拡大)
岩崎氏: 当社で製造するLSIはさまざまなタイプを想定していますが、デモ用のデジタルカメラに入っているのは丸い硬貨のようなカプラー(送受信アンテナ)とLSI部に分かれた1cm角程度のコンパクトなLSIです。TransferJetは1対1でデータを連続して送受信しますので、データの連続性が保証されています。このため、TCP/IPプロトコルのように不連続に受信したデータを並び替える必要がなく、シンプルなLSIを作ることが可能です。
増田: TransferJetの超接近通信の原理とはどのようなものでしょうか。また、送信パワーを落としたWireless USBとどこが違うのでしょうか。
岩崎氏: 電波の送受信に誘導電界という新しい方式を使っています。コンデンサーの中にある電極と似ていて、2つのカプラーが3cm以内で超接近した時のみ両者が電荷的に結合して通信が可能になります。
送信パワーを落としたWireless USBとどこが違うかといえば、Wireless USBの電波は横波(光や電磁波など、振動が波の進行方向に対して垂直であるもの)の偏波なので、デジカメなどをクレードルに置く(送受信する)方向によって感度が異なってしまいます。これに対してTransferJetの電波は縦波(音波など、振動が波の進行方向に対して平行であるもの)で方向を選びません。このためデジカメをクレードルにどの向きで置いても同じ感度で送受信できます。
ハードウエア的には、この縦波対応カプラーの開発がブレイクスルーになったと言えます。クレードルにいくつかのカプラーを内蔵すれば広い受け面積が作れ、この場合はタッチした場所に最も近いカプラーだけが作動する仕組みです。
ソニーが2007年12月に発売した80GB HDD内蔵フォトストレージ「HDMS-S1D」にTransferJet機能を実装したデモ機 (画像クリックで拡大)
デジタルカメラを置く(すぐ近くまで近づける)と自動的に通信がスタートし、テレビ画面上にデジカメ内の画像が表示される。アプリケーションによってさまざまな利用方法が可能になる (画像クリックで拡大)
アプリケーションレベルでセキュリティーも確保できる
増田: TransferJetが普及すれば、デジカメをテレビにかざすだけで、家族の誰もがワンタッチで写真が見られるようになりますね。これはとても便利なのですが、「子どもがお父さんのデジカメのデータをワンタッチで見られる」というのは、プライバシーとしてはちょっと問題かもしれません。DLNA(Digital Living Network Alliance:デジタル家電向けホームネットワーク規格)の課題と同じように、家族間であっても、簡単で確実かつ低コストな認証が必要なのではないかと思います。
岩崎氏: 家庭内でも認証は必要かもしれませんが、「デジカメなどをクレードルに置く」というイベントを起こさない限りデータが見られないので、子どもに「お父さんのデジカメに触らないで」と言っておけば済むことかもしれませんね。
小高氏: 物理的なアクションを起こさない限りデータが見られませんので、「ネットワークに常時つながっていて知らない間に誰かにデータを盗まれる」というようなリモート犯罪の心配は一切ないとも言えます。
増田: 通信が暗号化なしで高速になることで、スキミング(磁気カードなどの情報を窃盗)されやすくなるのではないでしょうか?
小高氏: わずか3cm前後の通信なので、基本的な物理層は暗号化なしですが、必要に応じてアプリケーションレベルで暗号化や機器認証などのセキュリティーを確保できます。各機器にIDを付けられますので、ブラックリストなどの作成も可能です。スキミングが心配な電車の中などでは接続できるIDを制限し、会議などではIDを解放する、といった使い方も可能です。物理層で足りない機能は参加企業のノウハウで補えると考えています。
基本はファイル転送用で低消費電力
増田: TransferJetをHDMIのようにオーディオ&ビジュアル用途のストリーム接続として利用できるのでしょうか?
岩崎氏: 基本からすると、TransferJetはファイル転送のための規格です。最高375Mbpsという転送速度は、デジタルカメラなどのフラッシュメモリーのデータを読み書きするには十分過ぎる速さと言えます。また圧縮されたムービーのデータ、例えばAVCHDのハイビジョンムービーでも最高で24Mbps程度ですから、これをストリーミング的に転送することも可能です。ただし、HDMIの代わりにしようとすると1.5Gbps以上の転送レートが要求されますので、こうした用途には適さないと思います。転送時にエラー訂正を行いますが、通信距離が非常に短いのでエラー発生の要素は少ないと思います。
テレビのそばに設置するリビング向けパソコン「テレビサイドPC TP1」にTransferJetを実装したデモ機 (画像クリックで拡大)
クレードル(テレビサイドPC TP1)にビデオカメラを置くと…… (画像クリックで拡大)
画面上にビデオ映像がストリーミング再生されるというデモが行われた (画像クリックで拡大)
増田: クオリティーを落とさずにAVデータをストリーミングするためには、ジッター(時間的な揺れ)を除去するための同期機能なども必要になると思います。
小高氏: そうしたAV用途の機能も、必要ならアプリケーションレベルで実現できるでしょう。
増田: 消費電力はいかがでしょうか。省電力化が課題のデジタルカメラやビデオカメラに載せられるほど低消費電力なのでしょうか。また、クレードルなどの受け側は常時スタンバイしている必要があり、これにも電力が必要に思えます。
岩崎氏: 一般的に言って、無線の消費電力は出力と転送速度によって変化します。TransferJetの場合は超近距離通信なので、無線出力は一般のUWBの1万分の1と非常に低消費電力です。1bit転送する電力で見ると、非常に省エネなデバイスと言えます。転送レートがかなり高いので、グロスで見るとそれなりの電力になりますが、それでもデジタルカメラやビデオカメラのバッテリーを大きく圧迫するようなことはないと思います。
また、送るデータが少ない場合はデータを一気に送信して、あとは待機モードに入るというような機構を使えば省電力化も可能でしょう。待機時の消費電力もほかのUWBに比べてbitあたり10分の1程度まで省電力化が可能です。
増田: データの転送中にビデオカメラのバッテリーが切れる心配があります。いちいちACアダプターを使うのでは、ワイヤレス接続の意味がなくなってしまうと思いますがいかがでしょうか。
小高氏: これは検討の段階ですが、TransferJetでデータ交換すると同時に、非接触の電力供給も行えるクレードル、というようなアイデアもあります。
「タッチ文化」を世界に広めたい
増田: Wireless USBという強力なライバルがいる中で、TransferJetを普及させるためにどのような戦略があるのでしょうか。
小高氏(画像クリックで拡大)
小高氏: TransferJetはWireless USBと共存できると考えています。USBのエミュレーションで、TransferJetをUSBクレードルのように使うことも可能ですし、さらにTransferJetならではの使い勝手の良さを生かすことで、独自の道を歩めると考えています。
そのためには使い勝手がカギになると思っています。実際に、多くのデジタルカメラメーカーから「無線LAN内蔵カメラの敷居の高さと比べると、TransferJetはとても使い勝手がよく低消費電力だ」というご意見をいただきました。カーオーディオのメーカーからも、「車にクレードルを付けるだけで、携帯から音楽を非接触でカーオーディオへ転送できるのが便利」というご意見をいただいております。こうした家電的な使い勝手の良さを伸ばしていけば、TransferJetならではの世界を作れると思います。
増田: 「FeliCa」(非接触型ICカードの一種)が「おサイフケータイ」という愛称で知名度を上げたように、ネーミングはとても大切だと思います。私としてはTransferJet(輸送ジェット機)というよりも「タッチ&ゲット」のような愛称のほうが身近に思えますが、いかがでしょうか?
小高氏: TransferJetというのは規格の名称で、これをロゴにして普及させようとは思っていません。「タッチ&ゲット」は類似語などの関係で商標にならないので、別の愛称を考えています。
増田: TransferJetでは、置いたりタッチするという行為自体がユーザーインタフェースになると思います。このため、リンクして転送していることを実感できるような表示やGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)が必要でしょう。1970年代のSF映画のように、タッチするとメカが点滅して光が流れる、というような直感的に分かるサインがあると良いかもしれません。これはとても夢のあるユーザーインタフェースですね。
岩崎氏: おっしゃるとおり、ユーザーインタフェースが普及のカギになりますので、未来的で楽しい操作を実現したいと考えています。日本ではICカード乗車券などに代表される「タッチ文化」が定着しつつありますが、海外ではまだ未発展なのが現状です。しかしながら、米国のCESでプレゼンしたところ、海外でも「これは素晴らしい!」と絶賛をいただきました。この時に、タッチする面白さは海外でも通用するという手応えを感じました。さらに楽しく確実にタッチできるユーザーインタフェースを考えて行きたいと思っています。
携帯電話を中心に未来のTransferJetの利用シーンをデモンストレーションする岩崎氏 (画像クリックで拡大)
増田: 現在は計画のどの段階なのでしょうか。製品化の予定をお聞かせください。
小高氏: 私のプロジェクトから見ると、ようやく5合目までたどり着いたという印象です。来年度の後半に製品化を目指しています。「タッチ文化」を世界に広めるためにアイデアを積み重ねていきたいと考えておりますので、どうかご期待ください。
著者
増田 和夫(ますだ かずお)
デジタルAVなど先端分野が得意なオーディオ&ビジュアル評論家。PC誌やWEBでの取材&評論で活躍中。いわゆる物欲系レビューというよりは「モノとにらめっこをするのではなく、メーカーからの“ゼロ次情報”を大切にしたい。ユーザーの意見をメーカーに伝え、モノの背景にあるコンセプトと開発者のメッセージを探りたい」がモットーで、インタビューなどのジャーナリスティックな記事も得意。大の録画ファンで、エアチェック録画は1970年代から熱中。PC歴も20年以上のベテランだ。