次世代高速無線LAN「802.11n」、パワー・アンプが無線性能の鍵に
無線LANの次世代規格「IEEE 802.11n」が、高速LAN環境に革新をもたらそうとしている。IEEE 802.11nは、高品質のビデオ・データやオーディオ・データを伝送したり、インタラクティブ・ゲームのようなデータ量の大きなアプリケーションに対応したりできる高いデータ伝送速度を備えている。この規格に対応した無線LAN機器が普及すれば、家庭やオフィスのネットワーク環境が大きく変わることになるだろう。
http://www.eetimes.jp/eeLearningCenter/DesignCurrents/2008/200803_95.cfm
IEEE 802.11nに対応した無線通信機能を実現する際に鍵を握るのが、パワー・アンプICである。小型化が急速に進む携帯型機器に組み込むことが前提になる上に、IEEE 802.11nが求める高い無線性能を達成する必要があるため、パワー・アンプICの設計はこれまでになく難しくなる。
具体的な課題としては、OFDM(直交周波数分割多重)方式では、変調した無線信号の振幅が、時間的に大きく変動することが挙げられる。無線LANでは、1999年に標準化された従来規格の「IEEE 802.11a」以降、OFDM方式を採用している。OFDM方式は、複数の搬送波(サブキャリア)を使って情報(データ信号)を並列に無線伝送する変調方式だ。各サブキャリアの周波数は互いに直交関係になるように設定しておく*2)。その上で、送信するデータ信号をサブキャリアの本数で分割し、各データ信号をサブキャリアに載せて同時に送信する。サブキャリアごとのデータ伝送速度を低く抑えられることから、マルチパス・フェージングへの耐性を高められるという利点がある。
ところが、OFDMを採用する無線通信においてパワー・アンプICが扱うのは、直交関係にあるサブキャリアを合成した後の無線信号である。この無線信号は振幅が時間とともに大きく変動するのだ。各サブキャリアの振幅と位相は、原理的にランダムに(規則性なく)変化する。従って、サブキャリア同士がたまたま同じ位相で足し合わされてしまう可能性があり、その場合に時間軸上で振幅に大きなピークが生じてしまう。実際、IEEE 802.11nでは、ピーク対平均電力比(PAPR:Peak-to-Average Power Ratio)は10dBと大きい。ピーク対平均電力比とは、信号の振幅が平均値のときの電力と、振幅が最大値のときの電力の比である。パワー・アンプICは、信号の振幅がピーク値のときでも歪みが発生しないように、高い線形性を備えておく必要がある。ただし通常は、ピーク対平均電力比が7dBの無線信号に対応できればよい。通信期間のうち、ピーク対平均電力比が10dBに達する頻度は実際には低いため、10dBにおける歪みはある程度許容されるからだ。
最適な製造技術を探る
これまで無線LANに向けたパワー・アンプICの製造には、GaAs(ガリウムひ素)材料を使うヘテロ接合バイポーラ・トランジスタ(HBT)技術が採用されていた。しかし最近になって、SiGe(シリコン・ゲルマニウム)材料を使うBiCMOS(バイポーラCMOS)技術でも、2.4GHz帯においてGaAs材料と同等の性能を確保できるようになった。SiGe材料など、Si(シリコン)材料を利用する半導体技術でパワー・アンプICを製造する利点は多い。例えば、パワー・アンプ回路とともに、高度な制御論理を実行する回路を1枚のシリコン・チップに集積できたり、その結果としてコストを低く抑えられたりする。
実際に2.4GHz帯を利用する無線LANでは、CMOS技術を使ってトランシーバ回路とパワー・アンプ回路を1チップに集積する手法が提案されてきた。しかしこれまでのところ、思わしい結果は得られていない。すなわち、CMOS技術で製造したパワー・アンプ回路は出力電力が低い上に、電力効率も10%台と低かったのである。ただし用途によっては、CMOS技術で製造したパワー・アンプ回路によって、所望の性能を達成できる可能性もある。従って今後、出力電力が比較的低い用途など、特定の分野でCMOS技術の適用が広がると考えられる。
IEEE 802.11nは2.4GHz帯もしくは5GHz帯のいずれかを利用する。現在開発が進んでいるIEEE 802.11n対応の無線LAN機器は、2.4GHz帯を利用するものが多い。このためSiGe材料を使ったパワー・アンプICは2.4GHz帯に対応した品種が先行して製品化されており、5GHz帯に対応した品種はGaAs材料を使った製品しか投入されていなかった。ただしSiGe材料を使う5GHz帯対応のパワー・アンプICも開発が進んでおり、近い将来に製品化が始まるだろう。
5GHz帯に対応したシリコン・ベースのパワー・アンプICが実用化されれば、2.4GHz帯を利用する場合に比べるとコストは若干高くつくものの、5GHz帯を利用するIEEE 802.11nの普及を後押しすることになるはずだ。2.4GHz帯はすでにさまざまな無線通信方式が利用しており、かなり「混雑」している周波数帯域である。従って今後は5GHz帯への移行が進むとみられる。その際、シリコン材料を利用したパワー・アンプICは、大きな役割を果たすことになるだろう。
MIMO採用で要求性能が高まる
IEEE 802.11nの主な狙いは、無線LANのスループットを大幅に高めることにある。スループットを向上させる手法は、従来の無線LAN規格で採用された時分割技術や周波数分割技術、符号(コード)分割技術とは異なる。すなわちIEEE 802.11nでは、MIMO(Multiple Input Multiple Output)技術を導入した。
MIMO技術では、複数の無線送信/受信回路を用意して、それぞれにアンテナを接続する。これら複数のアンテナは、空間的に互いに離れた位置に配置しておく。すなわち「空間ダイバーシティ」と呼ぶ手法を採用する。こうした上で、送信側では各アンテナから周波数が同じ電波(無線信号)を同時に送信する。それぞれの無線信号には、送信データを分割して割り当てる。通常、同じ周波数の無線信号同士は互いに干渉してしまう。MIMO技術を適用した場合も、受信側の各アンテナに、複数の送信側アンテナから送った複数の無線信号が到達する。ただし、これらの無線信号は、それぞれ伝搬経路が異なり、その結果として到達時刻が異なった、いわゆるマルチパス信号である。そのため、伝搬経路の特性(伝達関数)をあらかじめ調べておけば、各アンテナが受け取ったマルチパス信号に演算処理を施すことで、受信側で複数の無線信号を分離することが可能だ。
一般にマルチパス信号は無線伝送品質を低下させる要因だが、空間ダイバーシティを採用したMIMO技術では、これをスループットの向上に効果的に活用している。従って、屋内や都市部など障害物が多く、マルチパス信号が発生しやすい環境において、理想的な方式といえる。
MIMO技術を採用するIEEE 802.11nに向けたパワー・アンプICでは、性能指標として出力電力と電力効率、線形性が特に重要になる。ただし線形性については、線形性と密接に関係した特性である変調精度(EVM:Error Vector Magnitude)を指標とする場合もある。パワー・アンプICは、従来の無線LAN規格に対応した品種に比べて、外形寸法や部品点数はそのままに、こうした性能を高めなければならない。
注釈
*1)Darcy Poulin氏は、無線通信向け高周波ICを手掛けるファブレス半導体ベンダーであるカナダのSiGe Semiconductor社でシニア・システム・エンジニアを務めている。専門は高周波技術。物理工学の学士号と応用物理学の博士号を取得している。Gord Rabjohn氏は、SiGe Semiconductor社でプリンシパル・エンジニアを務めている。専門はGaAs技術とパワー・アンプ技術。応用科学の学士号と工学修士号を取得している。
*2)ここで複数のサブキャリアの周波数が直交関係にあるとは、サブキャリア同士を乗算してシンボル長にわたって積分した結果がゼロになることを指す。つまりサブキャリアが互いに独立しており、相関がないことを意味する。